2009年06月15日

塩漬け(しおづけ)とは、古くから用いられてきた

塩漬け(しおづけ)とは、古くから用いられてきた食べ物(特に腐敗してしまいやすい物)を、長期保存のためや、味を付けるために食塩に漬けておいたもの、または塩に漬けておく方法そのもの。

これらは、腐敗しやすい畜肉や魚介類・野菜等を塩分濃度の高い状態とする事で細菌(雑菌)の繁殖しにくい環境において保存する手段として、古くから利用されてきた。特に魚介類では塩辛・野菜類では漬け物の一種とされる。

畜肉の場合にはハム等が塩を使った加工をするが、こちらは一度塩をまぶしたら適度に払って風通しの良い冷暗所で熟成されるため、余りハムを指して塩漬けとは呼ばない。塩漬け肉などは、樽などに切った肉と塩を漬け込んで作られるイメージのほうが強い。

塩の殺菌効果(細菌の概念が無かった時代には、単に「腐敗を防ぐ効果」とみなされた)に関しては余りにも古くから知られていたため、この塩漬けによる食糧保存がいつ頃から始まったのかは不明である。世界的にも塩を大量に用いる事で保存性を高めた食品は多く、また熟成により生の状態よりも味が良くなるとして好まれた事もあって冷蔵庫が普及するまでは様々な食品の保存に塩(食塩)が用いられた。

ただし好塩菌の中でも高度好塩菌のような塩分濃度の極めて高い環境を好む菌もあるため、食塩のみでは完全に腐敗を防ぐ事は出来ない。しかしそのような環境でのみ生息する特定の菌類を繁殖させ、これを食品加工に用いる場合がある。(→くさやなど)
ボディビルディング
芸術
原子力工学
グラフィックデザイン
楽譜
インダストリアルデザイン
太陽系
マラソン
風水
北海道
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インディアカ
核医学
ゴルフ
性行為感染症
ポリマー
デング熱
電子工学
色素性乾皮症
農業工学

遺体の保存方法として利用された例も多い。中国や日本では戦国時代以降、打ち倒した相手の首を切り落として首級として持ち帰る際に、首を塩漬けにして腐敗を防いだ。また権力者が客死した際や埋葬する際、あるいは他の季節なら問題なくとも、真夏に死去して葬儀の間に遺体が腐敗しやすい場合など、塩漬けにして遺体を保存する事もあった(文禄慶長の役の耳塚を参照)。

ヨーロッパでも第一次世界大戦の頃までは、遺体を戦地から塩漬けにして輸送する事も在った模様である。

学術的に貴重な標本 [編集]
生物標本を保存のために一時的ないし一定期間、塩漬けにして保存する事がある。これは現在では様々な防腐処理が発達したために取られない方法であるが、未開国で採取された標本の保存のために使用される事があった。

シーラカンスでははじめて捕獲された標本が、塩漬けによって保管されていた。ただしこの方法は標本の水分が抜けてしまうために原型を損なう事も多く、シーラカンスでも当初は塩漬けになっていたために、その生物的特長が判りにくかった模様である。

転用 [編集]
転じて、購入後に価値が下落した不動産・株券などを、値上がりを期待して長期間保有し続けることや、しなければならないことを先送りにすることの意味にも使う。

塩漬け不動産 [編集]
日本でのバブル景気の頃に、銀行は土地や建物を担保に資金を貸し出したが、現在ではこれらの不動産の市場価格は下落、土地や建物の管理維持費だけは掛かり続け、しかも売ろうにも買い手がつかないと云う状況にもなっている。

このような担保になっているのに現金化できない不良資産は日本国内に数十兆円規模にも上ると見られている。

その一方で占有屋と呼ばれる、不動産売買を妨害して金銭を要求するグループの問題もあり、これが居座っているようなケースでも、塩漬け不動産と呼ばれる事もある。

バブル絵画の塩漬け [編集]
日本ではバブル景気の頃に、海外の美術品や絵画が投機目的で美術ブローカーらによって、海外オークションで買い漁られた。

これらは当時の市場価値を逸脱して値が付けられたため、後に不景気になって売り出そうにも、市場評価価格は当時の美術ブローカーが買った価格よりもはるかに廉くなっているケースも多く、投機目的でこれを収集した企業では「売れば赤字」という状況から売れず、また一部では倒産企業から財産として差し押さえるも、やはり売れないという状況の美術品も発生、これらは企業の保管庫で死蔵される状況となっている。

このような状況を揶揄して、「塩漬け絵画」等と呼ぶ者もいる。

2009年05月30日

天璋院

天璋院 / 篤姫(てんしょういん / あつひめ、天保6年12月19日(1836年2月5日) - 明治16年(1883年)11月20日)は、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった。

実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫。

幼名・一(かつ)。本家当主で従兄・島津斉彬の養女になり本姓と諱は源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めた(この際に篤の名は君号となり、篤君(あつぎみ)」となった)。

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天保6年12月19日(1836年2月5日)、鹿児島城下に生まれる。嘉永6年(1853年)、従兄である薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、同年8月21日に鹿児島を陸路出立し熊本を経由して江戸藩邸に入る。安政3年(1856年)に右大臣・近衛忠煕の養女となり、その年の11月に第13代将軍・徳川家定の正室となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った(輿入れの経緯・詳細については後述)。なお、家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島に戻ることは無かった。

しかし安政5年7月6日(1858年8月14日)に家定が急死し、同月16日(8月24日)には斉彬までもが死去してしまう。篤姫の結婚生活はわずか1年9ヶ月であった。家定の死を受け篤姫は落飾し、戒名は天璋院殿従三位敬順貞静大姉、通称天璋院と名乗る。同年12月、従三位に叙位。

家定の後継として、家定の従弟で紀州藩主だった徳川家茂が14代将軍に就任することとなった。その後さらに幕府は公武合体政策を進め、文久2年(1862年)には朝廷から家茂の正室として皇女・和宮が大奥へ入る事になる。薩摩藩は天璋院に薩摩帰国を申し出るが、天璋院自身は拒否して江戸で暮らすことを選んだ。

和宮と天璋院は「嫁姑」の関係にあり、皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いもあってか不仲だったが、後には和解したと言われる。このあたりの事情について勝海舟が『海舟座談』で述べている。また、天璋院が自ら擁立する予定だったにも関わらず、第15代将軍・慶喜とも仲が悪かったことが勝の談話などからうかがえる。慶応2年(1866年)の慶喜の大奥改革に対しては、家茂の死後「静寛院宮」と名乗っていた和宮と共に徹底的に反対している。

慶応3年(1867年)に慶喜が大政奉還をするも、その後に起きた戊辰戦争で徳川将軍家は存亡の危機に立たされた。その際、天璋院と静寛院宮は、島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力し、これを実現した。そして、江戸城無血開城を前にして大奥を立ち退いた[1]。慶応4年(1868年)4月に新政府から従三位の位階を剥奪されている。

2009年04月26日

エロヒムの訳語としての「神」

]「神」の字が、ヘブライ語のエロヒーム、、英語の"God"の訳語に当てられたのは、近代日本でのキリスト教宣教に先行していた清におけるキリスト教宣教の先駆者である、ロバート・モリソン(英語版記事:Robert Morrison)による中国語聖書においてであった。しかしながら訳語としての「神」の妥当性については、ロバート・モリソン死後の1840年代から1850年代にかけて、清における宣教団の間でも議論が割れていた。

大きく分けて「上帝」を推す派と「神」を推す派とが存在したが、和訳聖書の最も重要な原典と推定される、モリソン訳の流れを汲むブリッジマン・カルバートソンによる中国語訳聖書は、「神」を採用していた。殆どの日本語訳聖書はこの流れを汲み[7]、「神」が適訳であるかどうかをほぼ問題とずに[8]、こんにちに至るまで「神」を翻訳語として採用するものが圧倒的多数となっている。

ユダヤ教成立以前の信仰をヤハウェ信仰と呼ぶ。ヤハウェは、元来はシナイ山で信仰された山の精などを指したのではないかと考える者もいる。ヘブライ人がカナンの地を侵略、定着する過程で、先住民カナン人の最高神であるエルやバアルの性格を取り入れ、後にバビロン捕囚などを経てユダヤ教が成立してゆく過程において唯一絶対神の性格を帯びるようになったとする説もある。四資料説においては、「エル」を神の呼称とする資料(エロヒム資料)に比べ、ヤハウェを神の名とする資料(ヤハウェ資料)は新しく、祭儀を祭司階級に担われたものと考える点などにおいて、先行資料と異なっている。

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旧約聖書に於けるヤハウェは唯一神であり全世界の創造神とされ「宇宙の最高原理」のようなもので、預言者を除いた一般人にとっては、はっきりしない存在であるが、むしろ自ら人間たちに積極的に語りかけ、「妬む」と自称するほど感情的であり、創世記のとおり人類はヤハウェに似せて造られたことが伺える。但し、広義では他の生物、物質も人類と性質が似ており、人類がヤハウェに似ていることは宇宙空間全体の事象に帰納(きのう)できる。また、『創世記』第32章第31節?や『出エジプト記』第4章第24節?などには自ら預言者達に試練を与える場面もあり、ヘブライ人たちがヤハウェを決してはっきりしないというだけではなく、預言者を通じて実在感のある存在と捉えていた事がわかる。

キリスト教における受容
キリスト教においてもヤハウェは神の名と考えられる。すでに『ヨハネによる福音書』で「エゴー・エイミ・ホ・オーン」(?γώ ε?μί ? ών、「私は在る」の意)という言葉はイエスと結び付けられ、その神性を現す意図で多用されている。「私は在る」とは『出エジプト記』第3章第14節においてヤハウェが名乗ったもので、イエスはこれを多用して自分がヤハウェと密接な関係にある事を暗に示したのである。正教会において、イエスの聖像、とりわけマンディリオンにおいてその光輪にギリシア文字 "Ο・Ω・Ν" 『在るもの』) を記す習慣もこれに関連する。

三位一体の教説が成立して以降、ヤハウェを単に神の名とするにとどまらず、特定の位格と結びついた名として捉える論考が現れる。一般に、西方教会においてはヤハウェ(ラテン語文献では多く「エホバ」)を父なる神と同一視することが多く、対して東方教会においてはヤハウェはイエス・キリストの神格における名であると考えられることがある。

2009年04月10日

ターボ・フォーク

ターボ・フォーク(セルビア・クロアチア語:Турбо-фолк、ラテン文字表記Turbo-folk)はバルカン半島発祥の流行音楽のジャンル。20世紀末の旧ユーゴスラヴィア諸国で興り、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロがその主な中心であるが、クロアチア、マケドニア共和国、スロベニアといったほかの旧ユーゴスラヴィア諸国でも盛んである

主な特徴としては、セルビアの伝統音楽やギリシャの音楽、ロマ音楽、トルコ音楽などの要素をポップ・ミュージックに取り入れ、ダンス・ミュージックなどの現代の流行音楽の要素を織り交ぜたものである。同様のものはバルカン半島各国に見られる。

ターボ・フォークはブルガリア、トルコ、ギリシャでもよく聴かれている。これらの国々にはそれぞれ類似の音楽ジャンルであるチャルガ、アラベスク・ポップ音楽、ライカが存在する。また、ルーマニアのマネーレも類似の音楽である。

ターボ・フォークの語はランボ・アマデウス(Rambo Amadeus)によって1980年代に冗談めかして語られたのが始まりである。アマデウスは、多くの音楽のスタイルを混合してそれらの要素を併せ持った、自身の音楽のスタイルについて語る中で出てきた言葉であり、進歩した現代的なイメージの「ターボ」と、伝統や保守を想起させる「フォーク」を結びつけたものである。

1991年、ベオグラード北部のノヴィ・ベオグラード地区には違法ラジオ局がいくつかあった。その中のひとつはDJ W-ICEなる人物によって運営され、そこでは民俗音楽とダンス・ミュージックをミックスして放送していた。W-ICEは後にゾリツァ・ブルンツリク(Zorica Brunclik)はじめ民俗音楽のビデオ・クリップに登場するようになった。

実際には、ターボ・フォークという語が登場してから、それが真剣に取り扱われるようになるまでには数年の年月があった。1993年、ユーゴスラヴィアは瓦解し紛争が始まり、旧ユーゴスラヴィア各国の経済状態は悪化した。国際的な経済制裁を受けたセルビアなどでは極度のインフレーションを経験した(ユーゴスラビア・ディナールも参照)。この時、多くの人々が商業的民俗音楽に癒しを求めていた。

このような商業的民俗音楽は低俗であると見なされつつも、その需要は伸び、セルビアなどの地域の音楽シーンのトップに躍進した。その中心となったのは享楽的で挑発的な有り様のものであった。ミタル・ミリッチ(Mitar Mirić)の「Ne može nam niko ništa」は男女の愛があらゆる困難に打ち勝つ内容を歌ったものであり、暗にセルビアの国際的孤立の哀感を表したものである。1994年にイヴァン・ガヴリロヴィッチ(Ivan Gavrilović)の曲「200 na sat」(毎時200回)は疾走するスポーツ・カーを歌った内容であり、ターボ・フォークの方向性を確立する内容となった。この曲はクロアチアのグループ、Vatrogasciによって「Nema ograničenja」のタイトルでカヴァーされ、そのコーラス・ラインの中では「ターボ・フォーク」の語が登場する。

やがて、ターボ・フォークはひとつの確立した音楽としてその名前で知られるようになり、ツェツァやミラ・シュコリッチ(Mira Škorić)、ドラガナ・ミルコヴィッチらは脚線美を強調したパフォーマンスや禁忌を破る内容でこのジャンルに入り込み、大スターへと成長していった。露出度の高い女性たちによる扇情的な舞台パフォーマンスと無難で無害な歌詞は、セルビアにおいてパフォーマンスとテレビ放送の回数を押し上げる確実な方法であった。

傾向 [編集]
ターボ・フォークはユーゴスラヴィアの商業的民俗音楽を強く受け継いでおり、その商業的民俗音楽そのものはユーゴスラヴィアでは1970年代から既に大変に人気のある音楽であった。そのため、いつの時代までが商業的民俗音楽で、いつの時代からがターボ・フォークと呼ぶべきものなのかははっきり区分けすることは難しい。

音楽的にはターボ・フォークと商業的民俗音楽は大変に似通っている。それらは共にロマ音楽や中近東の音楽、トルコの流行音楽、ギリシャの流行音楽、セルビアのブラス・バンドなどの混合であり、ロックや現代の電子音楽などの要素を併せ持っている。ターボ・フォークと商業的民俗音楽の主な違いは、その視覚面と歌詞の内容の違いである。ターボ・フォークではより外見的な性的魅力を誇示し、露出度の高い服を着て、愛の歌やみだらな内容を暗喩する歌詞が多く登場する傾向にある。 そのため、ターボ・フォークは根本的に商業的民俗音楽と同一のものであり、その違いはパフォーマーの年代の違いでしかないとする見方もある[1]。このような立場からの見解はおおよそ次のようなものである。

レパ・ルキッチ(Lepa Lukić)やシルヴァナ・アルメヌリッチ(Silvana Armenulić)らによって支えられた1970年代の商業的民俗音楽は、とてもポップで親しみやすく一般受けするものであると自認する。1980年代にはシーンの頂点はレパ・ブレナやヴェスナ・ズミヤナツ(Vesna Zmijanac)らに取って代わられた。彼女らはより高い歌唱力に加え魅力的な外見を持ち、私生活など音楽以外の面でも注目されるようになった。1990年代から2000年代にかけてツェツァやイェレナ・カルレウシャらがその頂点に立ったことは、1980年代までの商業的民俗音楽の流れから言えば自然なことであり、より外見的なものを重視するという次の段階に移ったに過ぎない。

主なアーティスト [編集]
ツェツァ
ダーラ・ブバマラ
ドラガナ・ミルコヴィッチ
ゴガ・セクリッチ
インディラ・ラディッチ
イェレナ・カルレウシャ
セカ・アレクシッチ
シャバン・シャウリッチ
ストヤ
アナ・コキッチ
アナ・ニコリッチ
ジェリコ・ヨクシモヴィッチ
Aca Lukas
Keba
Ivan Gavrilović
Marta Savić
Mile Kitić
Miloš Bojanić
Mitar Mirić
Nada Topčagić
Nedeljko Bajić Baja
Osman Hadžić
Sinan Sakić
Šako Polumenta
Siniša Vuco
Kemal Malovčić
Goga Filipović
Tanja Savić
Slavica Ćukteraš
Sanja Maletić
Sanja Đorđević
Viki Miljković
Mira Škorić
Mina Kostić
Romana
Danijela Vranić
Olja Karleuša
Zorica Brunclik

スイート ビジブル 神の蔵 梅最適 ノマド 天空の城 ほない スポー メセナ ノーブル ルピア レシピ ビーエル ナビサド インテーク オーバー ベックス イッシュー ムラグ おのいして ガーベラ バターケ ピッチ リアフレ デルレイ ソシオ ひるぜん ストロ ビジョナリー ミブーツ デポジット フレッ シンフ マザー ウルク たつごう キヨス モルツ トゼブラ シェルタ マホメ ふたみ せっさ マヌカン レクチン クロヨン プラグ ナッシ トーチ リョウ

2009年03月26日

かってに改蔵

『週刊少年サンデー (WS)』誌上において1998年21・22号から2004年34号まで連載。『太陽の戦士ポカポカ』の次の連載にあたり、『WS』上では4作目、久米田の通算としては5作目となる連載作品。また、久米田が長らく活動の場としてきた『WS』において最後に掲載された作品でもある(2008年9月現在)。
ピンク バター 天使ノタ マルチ 華の段 メロン カーリング ゲットー バイオガス ハンカチ ハンドマ チューリン バナナ レパシー サープラ ロザリ キンリー ウエス シェリフ アンソ チェロ さらくやし ピーエル ギング モノキ トリポ ラップカ ハイデ 枸橘 高麗人参 リベラル ワイル ブレーキ ちょうせき トレーダー カモミー アージュ リム いっきく おのえ フィナーレ ゴニウム ノギス ソフト スポイル マベパール ラクトース きわの マフィン ングイン

東京都練馬区と埼玉県の中間にあるという「虎馬(とらうま)町」(別名しがらみ(死殻海)町)を舞台(初期は与野本町だった)にした、一話完結式のギャグ漫画。

虎馬(とらうま)高校2年生の主人公「勝 改蔵」は、元天才児で現在は思い込みの激しい超変人。ある日、ふとした事故で気を失った彼は、科学部部長「彩園 すず」の気まぐれ発言により、自分が改造人間になったと思い込んでしまう。こうして科学部改め科特部に所属することとなった彼は、様々な怪人(と決め付けたただの変人)と戦う決意をする。

後に、改蔵は幼少時代に地域のエリート塾「天才塾」に通っていてご近所からは神童と呼ばれていたが、羽美が改蔵を公園の遊具から突き落としてしまった事をきっかけに、おかしな言動をとるようになった結果、天才塾の崩壊、天才塾生達の変態化という事態を招いてしまうことになった事実が判明。連載初期はそのために天才塾の刺客に狙われるという設定だったが、中盤以降はそのような設定があった事すら忘れ去られたように触れられなくなってしまった。

序盤では露出などの下ネタを主としたギャグ展開が多かったが、中盤以降は日常的な物事を収集・羅列するネタが特徴的であり、それまであまり見られなかったマニアックなネタなども随所で見られる。これはアキハバラマップの作成を含めて畑健二郎の影響による所が大きい。「行け!!南国アイスホッケー部」や「ポカポカ」から引き続いて連載初期は北崎拓が頻繁にネタにされていたが、それ以後は藤田和日郎、万乗大智、猪熊しのぶ、赤松健といった面々や、畑健二郎や前田君などのアシスタントをネタにすることが多くなった。

本作の作画方法、社会風刺ネタ、小ネタを多用する作風や、自虐的、猟奇的、ストーカー等のキャラクターの性格は後の『さよなら絶望先生』に引き継がれた。

2009年03月10日

サンタ・クルス・デ・モンポス

モンポス(Mompox / Mompós)、正式名サンタ・クルス・デ・モンポス(Santa Cruz de Mompox)は、コロンビア北部ボリーバル県にある都市である。コロニアル様式の町並みが残る都市で、マグダレナ川とカウカ川が合流する場所近くの、洪水除けのために盛り土をした場所の上に築かれており、カルタヘナからは249 km 離れている。人口は約3万人で、ピニジョス市(Pinillos)やサン・フェルナンド市(San Fernando)に隣接している。

南アメリカ大陸のスペイン植民地の多くを解放したシモン・ボリバルは、「もし私の人生がカラカスのおかげならば、私の栄光はモンポスのおかげである」と語った。ボリバルは1812年にモンポスに到着し、屈強な男たちのほとんど全員にあたる400人ほどを雇った。その男たちが、カラカスでボリバルを勝利に導いた軍勢の基盤になったのである。

「モンポ」(Mompo)あるいは「モンポジ」(Mompoj)は、スペイン人がこの地に到着した時の、地元キンバヤ人(Quimbaya / Kimbaya)の首長の名であった。「モンポス」(Mompox)は「支配者モンポの土地」という意味である。

都市はマグダレナ川の安全な港として、1537年5月3日にアロンソ・デ・エレディア(Don Alonso de Heredia)によって建設された。サンタ・クルス・デ・モンポスの名は、当時のカルタヘナ総督フアン・デ・サンタ・クルス(Juan de Santa Cruz)にちなんでいる。この町は、川を遡って内陸に物資を運ぶ港として、大いに栄えた。王立造幣所もこの町に建設され、その金工たちで有名になった。この繁栄は19世紀になると衰退し始める。それでも20世紀初頭まではなおも港町として存続していたが、支流に堆積物がたまり、川の流れが変わると、そこに建てられた町マガングエ(Magangué)に取って変わられた。

サンタ・クルス・デ・モンポスは、スペインの様式とアメリカ先住民の様式の混交したコロニアル様式の町並みが良好に保存されていることで知られている。1995年にユネスコの世界遺産委員会は、モンポスの歴史地区を世界遺産リストに登録することを決議した。今日、コロニアル様式の建造物のほとんどは、本来の用途で使用されつづけているが、同時にスペインコロニアル様式の傑出した例証ともなっているのである。
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特に注目すべきなのは、アルバラダ通り(Calle de la Albarrada)、レアル・デル・メディオ通り(Calle Real del Medio)、アトラス通り(Calle de Atrás)などの街路沿いに見られる扉、手すり、格子窓などを飾り立てている鍛鉄製の作品である。また、サンタ・バルバラ聖堂(1613年建造)、アン・アグスティン聖堂(1606年建造)、サン・フアン・デ・ディオス聖堂、「無原罪の御宿り」聖堂などの素晴らしい聖堂群も残っている。

サン・フランシスコ聖堂は、元々は1564年に建てられたものであり、1580年には修道士フランシスコ・ゴンサガ(Fray Francisco Gonzaga)によって修道院が併設された。この聖堂は整った壁画で知られていたが、1996年の改修工事中のトラブルで損壊してしまった。基礎がしっかり固められるとともに、暫定的な修復作業は終わっている。
サン・フアン・デ・ディオス病院は1550年に建造された。1663年にはラ・オルデン・デ・トドス・ロス・エルマノス・オスピタラリオス(La Orden de todos los Hermanos Hospitalarios, 「病院の兄弟たち」の修道会)は、その経営権を引き取った。その維持・運営費は、その地方の有力者たちの寄付と、マグダレナ川を航行する船にかけられていた勅許税に依存していた。この病院は、当時の建物で今もなお機能しているものとしては、アメリカ州最古の病院であると考えられている。
使徒の邸宅は、レアル・デル・メディオ通りにある地元船主の邸宅だった建物である。「使徒の邸宅」の名は、観光客もよく見にくる12使徒の美しい絵画があることにちなんでいる。ほかにも、最後の晩餐におけるイエスを描いたものがある。
市庁舎には、植民地時代の地下牢や市長の応接間がある。1810年8月6日にスペインからの独立宣言に調印がされたのも、「自由か死か」("Ser Libres o Morir")という叫びが初めて聞かれたのもここであった。
市の宮殿(The Municipal Palace)は1660年に建造されたもので、サン・カルロス修道院(the Cloister of San Carlos)とも呼ばれている。この修道院には、イエズス会が退去を命じられるまで存在していた最初の中等学校も存在していた。1767年に修道院でなくなり、1809年には、ペドロ・マルティネス・デ・ピニリョス(Pedro Martínez de Pinillos)によって使徒聖ペテロ総合学校(Universal School of Saint Peter the Apostle)が設立された。
無原罪の御宿り聖堂は、元々は1541年にペドロ・デ・エレディアによって日干し煉瓦で建てられた聖堂であった。10年後、増築されるとともに日干し煉瓦建築の多くが石造に替えられ、藁葺き屋根もタイルに替わった。その規模ゆえにしばしばモンポスの大聖堂と見なされた。本来の建物は数度にわたり改修されたが、その最後のものは1795年のことであった。1839年に当時の州総督が取り壊しを命じたため、現在残っている聖堂はその跡地に建てられたものである。
サンタ・バルバラ聖堂は、モンポスに残っている聖堂の中でも、特に有名で重要なものの部類に属している。1613年に完成した聖堂は美しいバロック様式の鐘楼を備えており、それにはバルコニーがついている。鐘楼はヤシ、花、ライオンなどを象った飾りに彩られており、鐘楼についているドームもバロック様式である。聖堂の3つの聖餐台は荘厳な金細工である。

2009年02月22日

ロジバン ( lojban [lo?ban] )

ロジバン ( lojban [lo?ban] ) は、ログランを元に、さらなる機能性を追求して LLG が開発を引率してきた人工言語である。1987年に公表され、1997年に文法が暫定的に完成、2002年から実用段階に入った。主にインターネットを中心とする国際的な研鑽が進んでいる。

ログランから継承したものも含め、ロジバンは以下の性格を有する。
バニラ ラバー 野かんぞう シバナ ナムル 青じそ ネムノ マンナン シュミー 春の小川 スキル マルシー フライ イノベー フェロール ウシカ おすすめ ライフ シュー スタイ ラードダ カタクリ 桜桃 ステッカ バイオ ドリフト テキス サイト刈穂 ルクラス シャンパン ピン幸運 ドラキュラ ヨード パレス トレー しりもち くさなぎ アックス すたー るはーぶ ワイルド ぴおーね 天使のア シスタ リライト ランス ナルキ サイバ グロブリン ポイント

高性能な文法:

万能な記述形態として知られる述語論理が文法の基盤をなしている。自然言語では表現が困難であるような複雑な意味合をごく明晰に記述したり、文芸的理由からあえて多義的な表現を織るなどができ、話者の自在性に尽くす。いかなる不規則性をもきたさないロジバンの表記法や構文法はまた、コンピュータによる解析や人による読解を容易にしている。日常会話だけでなくプログラミングにも適っており、機械と人間が同じ言語を共有できるようになる将来を示唆するものとして注目されている。
命題に関与しないところで使える、感情や態度を表すための言葉を多くとり備えている。話者が自覚できるかぎりでどのような心情表現もが可能となっている。
新しい言葉を合成することが手軽にできる。約1200あまりという語根の数自体が自然言語におけるいわゆる常用単語の数と比べてはるかに少なく、それであって可能な総語彙数(最低でも144万語)が自然言語のそれをはるかに超える。同音異義語は原理的に存在しない。合成語を構成する要素の一つ一つは本来の語根として確実に照応できるようになっている。つまり、僅かな語根を習得することで膨大な語彙を生成・理解できるようになる。
文化的に中立:

当初の開発者および現在の話者達に一貫して、自己の文化的な背景に流れず努めて中立を保つことが志されている。その現れの一つとして、従来の人工言語にはみられないほどに広範な語派を源泉として独自の語根を創出したことが挙げられる。
表記文字は公式には指定されておらず、言文一致の原理を維持できるならばどの表記体系も認められる。今のところ主流であるアスキー式では、特殊な文字セットを要することがなく、各国のどのコンピュータ・キーボードからでも即座に入力できる。
単数・複数、男性・女性、能動・受動といった文化特有的な識別に言葉の形が影響されない。これは、男性形を基本として女性形が派生されるという、自然言語に広くみられる男尊女卑の意識を回避できるということでも有意義な原理である。数や能動関係の明示・非明示は話者の意志に委ねられる。先立つログランの目的がそもそもサピア・ウォーフの仮説の如何を研究するための言語的基礎を用意することだった。言語は人の思考形態を左右する、というこの仮説にたいする肯定的な姿勢をロジバンは継承している。ときに閉塞的であったり不条理であったりする伝統と慣習を土台とする自然言語による思考の枷から離れて物事を理解し語ることの価値をロジバニストは認識する。
文法が一応の完成をみた現在、開発を引率してきた LLG はロジバンの以降の育成を公共に委ねている。特定の統制機関の価値観にロジバンが癒着しないことが望まれている。
文法
概念
ロジバンの文法は人間の言語のものとしては無類の性格をしており、これを体系的に解説・把握するうえでは一般の言語学用語では間に合わない場合がある。ここでロジバン独自の概念をいくらか導入しておく必要がある。以下の表は、ロジバン文法に関する、ロジバン由来および英語由来の文法用語に、どのような日本語の文法用語が対応しうるかを示したものである。正規の日本語訳というものが定着していない。何らかの訳にたいする日本語話者の共通理解を準備するものとして暫定的な日本語を右柱に掲載してある
* ロジバンには文法カテゴリーとしての格は存在せず、これに相当する語句の関係性は place structure に内部化されている。文中の語順を変えるとき、この内部的な関係性を維持するために該当語句に標識を付けることになり、この機能を日本語の格助詞になぞらえることができる。
brivla、ma'ovla、そして cmevla は、それぞれ異なる形態法則に基づいており、形からはけっして混同されないようになっている。ロジバンの形態論上の三品詞である。自然言語と違うのは、品詞型そのものが構文上の働きを決定しないということである。たとえば英語の名詞はその品詞型ゆえに述部となることがないが、 brivla をはじめとするロジバンの三品詞は述部にも主部にもなる(後続の表を参照)。ただしこれは三品詞が文中においてどっちつかずの曖昧な存在であるということではない。それらが構文上どのような振舞いをするかについては精密な統語論が設けられている。また、言葉の形が文法カテゴリーに応じて変化することはない。よって、屈折、活用、ディクレンション、格変化などはロジバンとは無縁の概念である。

ma'ovla と cmevla という名称は、それぞれの語源である cmavo と cmene に略せる。むしろそちらの方がコミュニティにおける実際の使用率は高いといえる。 valsi は「語詞」を意味する。 brivla との語呂が合致して品詞関係を把握しやすくなることから valsi を加えた ma'ovla と cmevla を用いることが正規の解説では有意義となる。

ma'ovla には多くの下位区分がある。その一つ一つに分類名称(selma'o)がついている。たとえば attitudinal は UI という類名に属する。代表的な attitudinal である ui に由来している。このように各類名はそれに属する象徴的な ma'ovla が元となっている。広義では同じ UI 類でも、たとえば evidential と discursive はさらに UI2 と UI3 という具合に狭義化されている。これらの類名は本格的な構文解析やパーサ開発の中で求められた区分であり、普段の会話で重視する必要はない。同類の ma'ovla は同じ文法に従うため、学習の際の参考材料にはなる。たとえば UI 類の用法を習得することでこれに属する ma'ovla を既知・未知に関わらず全て正しく使えるようになる。以下はいくらか簡略化した表である:

英語文献ではしばしば attitudinals という言葉をもってして evidential、discursive、emotion、vocative などが総称される場合がある。文法上の振舞いがごく似通っているからである。そのあたりの共通性を反映させるものとして暫定の日本語訳には全て「態」の字を持たせている。総称としての attitudinals はそれぞれの頭字を除いた「態詞」で表せる。
rafsi は、全ての gismu および幾つかの cmavo に具わる抄形である。それらの rafsi から構成されるのが lujvo や fu'ivla である。 rafsi は単独では働かず、かならず他の文字列と結びついて用いられる。このことから rafsi は独自の品詞型を持たない。

文に関するもの(統語論)
* bridi を築くうえで selbri のとる項を特に terbri と呼ぶのにたいし、項としての性質を持つ単位全般を sumti と呼ぶ。 li'erpau 、 selbri 、 terbri 、sumtcita のいずれの中でも sumti は用いられうる。
** ロジバンでは、時間だけでなく空間や事物も tense の対象となる。よって、日本語の「時制」という限定的な用語を当てはめるのは不適切である。また、 tense ・ aspect ・ modal には、何らかの sumti を(明示・不明示に関わらず)参照して制御するという共通性がある。これを反映させて訳には「制」という字を共有させている。 sumti を含めた制御構造体を「制体」と総称できる。具体的にはそれぞれ「間制体」「相制体」「法制体」となる。
全ての selbri が有する、構文上の terbri の配列規則を place structure という。変数項としてどのような terbri を幾つ取り結ぶかは selbri の意味範疇や主題役割により様々である(cf. 結合価)。デフォルトでは最大五つだが、必要に応じて拡張できる。項位置 としての諸 terbri の配列は x1 x2 x3 x4 x5 というふうに表す。 gismu 表などでもこの表記が用いられる。

或る事象における能動・受動の関係すなわち態は、該当する selbri の place structure 中に内項と外項の違いとして内部化されている。主観的な能動性・受動性を特に強調するための処方としては UI 類 ma'ovla を使うものがある。

幾つかの selbri が連なって意味合が重層化したものを tanru という。構成要素は修飾側(seltau)と被修飾側(tertau)とに分かれ、後者が基本の place structure を提出する。よって意味論上はあくまでも単一の selbri として振舞う。 selbri に当たるものが皆 sumti 化されうるように、 tanru もまた sumti 化されうる。なお、 jvovla は tanru を一語化したものと捉えられる。

音韻論(概要)
ロジバンでは音声が基盤となって文字が派生する。発音にたいする綴りの忠実さを維持できるかぎりではどの文字体系の使用も認められる。したがって“公式”のアルファベットを持たない。現在の主流はコンピュータの入力規格として普遍的なアスキー式である。言文が一致するということが前提となっているので、書言葉は口言葉と表裏一体であり、音韻論の明確さは表記法の精巧さに反映される。

2009年02月06日

日本の歴史(にほんのれきし)

日本の歴史(にほんのれきし)、日本史(にほんし)とは、日本または日本列島における歴史である。本項では日本の歴史を概観する。
バク転 ルーシュ ハーブ シニカ テンペラ オーソー スラウ タナトス パンヤゾ いす 夢のカケラ コテージ リターン シーバー ディズム 不死鳥 パドボ 無邪気 アニン シノプシ クリア ラック 君の左手 ライム テストケー ダラス バイア ツルグミ めじり パントモ ニュー ニング エカナ ルノワー シング スカイブル マルメロ パジャマ こむぎ ズボン ウエハース きょうりん ステラ リレー きんかん ドレナ スキーリ パラメデ ローフ アイスティー

日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼる。約3万4千年前に華北地方からナイフ形石器と呼ばれる石器が伝わり、列島全域で広く使用されたが、約2万年前にシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まった。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存したが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消した。

約1万2千年前頃、最終氷期が終わり急激な温暖化による海面上昇が始まると、日本列島はアジア大陸から分離した。これにより、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、南西諸島を除いて、次の縄文時代へ移行していった。

縄文時代
約1万2千年前頃からは縄文時代と呼ばれる。草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。この頃の日本列島人は縄文式土器を作り、早期以降定住化が進んでおもに竪穴式住居に住んだ。弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集などで生活を営み、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた。

栽培も行われ、後期から晩期にかけては稲作が行われた。

南西諸島においてこの時期の前半は旧石器時代が継続していたが、約6千年前以降に貝塚時代に移行し、およそ平安時代末期まで続いた。

弥生時代
紀元前8世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生式土器に由来する。稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。

当時の日本列島は中国から倭・倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後半に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国の卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図った。

北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行した。

古墳時代
大仙陵古墳(前方後円墳)
馬の埴輪詳細は古墳時代を参照

3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。3世紀中ごろに機内に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内・山陽・北部九州に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。

4世紀後半からヤマト王権は、武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島南部への進出を開始したが、これを契機として朝鮮半島や中国の技術・文物が倭国へ多く流入することとなった。5世紀に入るとヤマト王権は本拠を河内平野へ移し、中国王朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。倭の五王は国内に対し治天下大王と称したが、これは倭国を中国と別個の天下とする意識の現れとされる。この時期の前方後円墳は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。

倭の五王の後、5世紀後葉から6世紀前葉にかけてヤマト王権内部の政治混乱が見られたが、継体天皇の登場によりヤマト王権による列島支配が強まり、一方、朝鮮半島への進出傾向は大きく後退した。こうした内向的な時期を経てヤマト王権による支配体制が徐々に強化されていった。

この時期の後半、5世紀ころからオホーツク海沿岸地域ではオホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。

飛鳥時代
6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。6世紀末、400年ぶりに中国を統一した隋の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらし、倭国でも7世紀前葉にかけて聖徳太子と蘇我氏により遣隋使派遣・冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。

7世紀中ごろの大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。

なお、この時期北海道中西南部・青森県北部においては擦文時代を迎える。

奈良時代
8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。この時期は、律令国家体制の形成と深化が図られた。王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法・墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。

また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。

文化面では、『日本書紀』・『万葉集』・『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教では鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。

平安時代
8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。平安前期には百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで政府は11世紀初頭ごろから地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。王朝国家では、大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系においては負名体制が形成し、軍事面においては国衙軍制を通じて武士階層が登場した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家が政権中枢を担う摂関政治が成立した。

12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の増加が著しくなり、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元・平治両乱を経て武士が政治に進出していき、その結果、平氏政権が登場した。

奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、平仮名・片仮名の使用が開始し、『源氏物語』・『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。

南西諸島においては、12世紀ごろからグスク時代に入る。以降の詳細は、北から奄美諸島の歴史、沖縄県の歴史、先島諸島の歴史などを参照のこと。

鎌倉時代
12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。13世紀前半の承久の乱の結果、公家政権は武家政権に寄生する存在となった。その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立した。

13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出など、大きな社会変動が生じ始めた。この動きは13世紀後半の元寇によって加速し、幕府の対応策は徳政令発布や得宗専制という形で現れた。また在地社会では悪党・惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。

文化面では運慶と快慶の金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面では鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。北海道においては、13世紀ころからアイヌ文化が成立した。

南北朝時代
南朝のあった吉野山詳細は南北朝時代 (日本)を参照
14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統の南朝と足利氏が支援する持明院統の北朝に朝廷が分かれた。大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、武士層の不満が増すと、足利尊氏はそれを背景に新政から離反し、持明院統を擁立して大覚寺統を南の吉野に追った。荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した。

文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、二条河原落書など文化の庶民化への動きが見られた。

室町時代

鹿苑寺金閣(北山文化)
天橋立図(水墨画)詳細は室町時代を参照

14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。足利尊氏が南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開いた。京都に本拠を置いた幕府は、朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷(公家政権)は政治実権を失っていった。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。こうして幕府と守護大名が構築した相互補完的な支配体制を室町幕府-守護体制という。

足利義満は南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い明皇帝から[日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。

この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き=一揆が浸透した。村落社会の自立化が進み惣村・郷村が各地に成立した。西日本では交易が活発化し、その活動は朝鮮・中国に及んだ(倭寇)。文化面では、連歌・猿楽・喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化が栄えた。この文化は禅宗の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。

2009年01月22日

紛争の平和的解決の義務が国際法上

「紛争解決」については、紛争の平和的解決の義務が国際法上、確立している。国連憲章2条3項は、「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」と定める。これは、憲章2条4項の武力による威嚇または行使の禁止原則からも導かれ、武力によって紛争を解決してはならないことに帰着する。また、憲章33条1条は、「いかなる紛争でも…その当事者は、まず第一に、交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取決の利用その他当事者が選ぶ平和的手段による解決を求めなければならない」と規定する。すなわち、平和的解決の手段の当事者の自由選択性である。この33条で定められた原則は、慣習国際法になっているとされる(「ニカラグアにおける軍事的、準軍事的活動事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1986, p.145, para.290)。「国際紛争の平和的解決に関するマニラ宣言」(国連総会決議37/10)は、「国家は誠実にかつ協力の精神で、国際紛争の一つの早くかつ衡平な解決を探求しなければならない」(附属書5項)とする。

「交渉」(negociation; la négociation)とは、当事者が直接の話し合いによって解決のための共通の合意に達することをいう。最も基本的な平和的解決の手段である。それは「誠実な交渉」(negociation of good faith)であると考えられる。これは、単なる形式的な話し合いではなく、合意に到達する目的を持って、どちらかが自分の立場の変更を考えないでそれに固執する場合ではない、有意義な交渉であるとされる(「北海大陸棚事件」国際司法裁判所判決、I.C.J.Reports 1969, p.47, para.85、皆川『国際法判例集』394頁)。前記「マニラ宣言」も、「直接交渉は当事者の紛争の平和的解決の柔軟で実効的な手段である」(10項)とする。

「審査」(enquiry; l'enquête)とは、紛争の解決の枠組みにおいて、争われている事実の公平な解明を目的とする手続きである。1907年の「国際紛争平和的処理条約」9条では、「締約国ハ、単ニ事実上ノ見解ノ異ナルヨリ生シタル国際紛争ニ関シ…之ヲシテ公平誠実ナル審理ニ依リテ事実問題ヲ明ニシ、右紛争ノ解決ヲ容易ニスルノ任ニ当タラシムル」とされる。

「仲介」(mediation; la médiation)とは、紛争両当事者の合意によって求められる一又は複数の第三者(国家、機関、私人)が両当事者の間に入って話し合いを促進させるために両者の主張を融和させることをいう(cf.「国際紛争平和的処理条約」4条)。

「調停」(conciliation; la conciliation)とは、「固有の政治的権限のない機関が、係争にある当事者の信頼を享受し、係争の全ての面を検討し当事者に拘束的でない一つの解決を提案する任務で、国際紛争に介入することと定義されうる」[11]。

「仲裁裁判」(arbitration; l'arbitrage)とは、広義には、当事者によって委ねられた第三者によってなされる法的拘束力のある決定によって紛争を解決する方法である(cf.「ローザンヌ条約第3条2項の解釈」常設国際司法裁判所勧告的意見、C.P.J.I., série B, n°12, 1925, p.26)。仲裁裁判判決に対しては、(1)裁判所の「権限踰越」、(2)裁判官の買収、(3)判決の理由の欠如または手続きの根本規則の重大な逸脱、(4)仲裁の合意または付託合意(コンプロミー)の無効を根拠に判決の無効を訴えることができるとされる(国連国際法委員会「仲裁手続きに関する規則モデル」35条)。1960年の国際司法裁判所における「1906年12月23日にスペイン王が下した仲裁判決に関する事件」はその例である。また、「エリトリア・エチオピア紛争」では、両国の合意で常設仲裁裁判所の下での「境界委員会」の設置が決まり、それは「最終的で拘束的」(final and binding)とされた。同委員会は、2002年4月13日に境界画定の決定を下したが、エチオピアはこの決定に対して、「解釈、修正、協議ための」請求を提示した。「境界委員会」は上訴は認められないとし、これを退けたが、両国の緊張は再び高まり、国連安保理が介入するに至り、2005年12月19日に両国の合意に基づいて設置された「賠償委員会」の決定が下され、2006年11月27日には、「境界委員会」は両国欠席のまま、緊急に境界画定に関する報告を発している。

「司法的解決」(judicial settlement; le règlement judiciaire)とは、当事者の外部にある、法に基づいて法的拘束力のある決定を下すことのできる権限を有する機関(裁判所)によって紛争を解決することである。その典型例が、国際司法裁判所の判決による紛争の解決である。国際司法裁判所で裁判を開始するためには、両当事国による裁判付託の同意が必要である。ただし、国は裁判管轄権が義務的であるといつでも宣言することができ(選択条項受諾宣言; Optional Clause)、この宣言を行った国の間においてはその宣言が定める事項的、時間的範囲内で国際司法裁判所は管轄権を有する(国際司法裁判所規程36条2項)。特定の条約において、その条約の適用、解釈の問題が起こった場合には国際司法裁判所に付託することを締約国に義務づけている場合もある(「集団殺害罪の防止および処罰に関する条約」9条、「義務的紛争解決についての領事関係に関するウィーン条約第一選択議定書」1条ほか)。国際司法裁判所の判決は、「当時国間において且つその特定の事件に関してのみ拘束力を有する」(国際司法裁判所規程59条)。また、「判決は、終結とし、上訴を許さない」(同60条)。
ラージヒル ニズム グアナコ キナパー レール ソング ジョッキー ロール ヒアシン オイヒバ アース ピーピーシー ダイエ バッグ リプレース おたま キング アルタイ キング マネキ ぴんぞろ エッジ プロテク ニバナ ヒッチハイ ひこうき ハバネロ ハムエ てんえい プリオン 相合傘相 マッサ ヤダケ ビネガー ファンド イヌイッ モルドバ コマソン カートン てんま りゅうちょう アラス マヌカン アナカン セフレ デビュー スリッペ ノンプロ ライトノ たいむ

国際司法裁判所以外にも、常設仲裁裁判所(PCA)などがある。常設仲裁裁判所は、国際司法裁判所と違って、個人または団体も当事者となることができるのが最大の特徴である。また、特定の条約制度(レジーム)内において、紛争解決のための独自の司法制度を整えているものもある。例えば、国連海洋法条約における司法制度(287条)及び同附属書VIによる国際海洋法裁判所(ITLOS)、世界貿易機関(WTO)における紛争処理機構(DSB)(パネル(Panel)、上級委員会(AB)の報告及びその履行)である。企業と外国国家間の投資に関する紛争を解決するための「投資紛争解決国際センター」(ICSID)も設置され、現在、大変活発に活動している(「国際投資法」)。

このように、今日では、常設の司法機関が次々と創設され、「国際裁判所の増加」(la multiplication des juridictions internationales)の現象が起きている。このため、異なる裁判所間で、同一の事項につき異なる判断がなされる結果としての「国際法の断片化」(fragmentation)が議論されている。

上記のような紛争の平和的解決を経て、ある国の国際義務違反が確認、認定された場合には、その違法行為によって生じた損害を賠償(reparation)する義務が生じる。これは、「国家責任法」という、また別の大きな国際法の一分野である。国家責任法とは、「国家の国際違法行為から生じうる国際法上の新たな関係」(ILC条約草案1条コメンタリー; YbILC, 1973, Vol.II, Pt.2, p.176)を規律する法規則の総体をいう。2001年には、実に約50年をかけて、国連国際法委員会(ILC)による同法の慣習法の法典化として、「国際違法行為に対する国の責任」(Responsibility of States for Internationally Wrongful Acts)条約草案(「国家責任条約草案」)が国連総会で採択された(2001年12月12日、国連総会決議56/83)。その第1条では、「国のすべての国際違法行為は、当該国の国際責任を伴う」とされている。これに従い、責任を負う国は、賠償として、「原状回復」(35条)を原則に、それでは十分に回復されないときには「金銭賠償」(36条)、「精神的満足」(satisfaction)(37条)を損害を被った国に対して行う義務がある。同条約草案は、一般国際法の強行法規(jus cogens)に基づく義務の重大な違反の法的帰結を定めており、諸国の合法的な手段によるその違反の終結のための協力義務とその違反によってもらたされた状態の不承認義務が規定されたことが特に注目される

2009年01月15日

ジークムント・フロイト

フィルター ダミー ドライブイ とっこ クーガー ミズム ソリッド カカオ ゲルサンド ザ・サボイ ソケット ジュート デイオ シェークス 澪標恋 フォーラ フーディア 自由の幻想 スペアリブ オーバー スペイン ピーエル スポッタ サチュ レンツェ リベラル インダー かえる ロウバ パイロ メーン フォックス ブラック シロヤ ブロー パトロー フラダンス タイボ ドジェ ひらない ちょうらく ニワウメ テディ コールド マナイ ザック ローブロ デーション ソール フライ

ジークムント・フロイト(ドイツ:Sigmund Freud、1856年5月6日 - 1939年9月23日)は、オーストリアの精神分析学者。オーストリアの白人系ユダヤ教徒アシュケナジーの家庭に生まれた。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した[1]。

非常に詳細で精密な観察眼を示す症例報告を多数残した。それらは、現在においても次々と新しい角度から研究されている。
フロイトの提唱した数々の理論は、のちに彼の弟子たちによって後世の精神医学や臨床心理学などの基礎となったのみならず、20世以降の文学・芸術・人間理解に広く甚大な影響を与えた。

弟子たちは、フロイトの考え方のどこかしらを批判した上でこれを受け継ぎ、様々な学派に分岐し、それぞれ独自の理論を展開していった。

1856年、オーストリア帝国・モラヴィアのフライベルク Freiberg(現チェコ・プシーボル w:Příbor)でアシュケナジーである毛織物商人ヤーコプ・フロイト(45歳)の息子として生まれる。

母親はブロディ出身のアシュケナジーであるアマーリア・ナータンゾーン(1835?1930)で、ユダヤ法学者レブ・ナータン・ハレーヴィの子孫と伝えられている。同母妹にアンナ、ローザ、ミッチー、アドルフィーネ、パウラがおり、同母弟にアレクサンダーがいる。このほか、父の前妻にも2人の子がいる。モラヴィアの伝説の王w:Sigismundとユダヤの賢人王ソロモンにちなんで命名された。そのため、生まれた時の名はジギスムント・シュローモ・フロイト(Sigismund Schlomo Freud)だが、21歳の時にSigmundと改めた。
家族は1859年、フロイト自身が3歳のときにウィーンへ転居。1866年(10歳)にシュペルル・ギムナジウムに入学した。

自然科学者としての出発
1873年(17歳)ウィーン大学に入学、2年間物理などを学び、医学部のエルンスト・ブリュッケの生理学研究所に入りカエルやヤツメウナギなど両生類・魚類の脊髄神経細胞を研究し、その論文は、ウィーン科学協会でブリュッケ教授が発表した。
またフロイトは、脳性麻痺や失語症を臨床研究し論文でも業績を残している。これらは彼がすでに、脳の構造と人間の行動、さらには心的活動に深い関心を抱いていたことを物語る。やがて彼は、脳の神経活動としての心理活動を解明するという壮大な目的を抱いたが、当時の脳科学の水準と照らし合わせると目的へは程遠いという現実にも気づいていた。
しかしながら、フロイトは終生、脳と心の働きの連関を「科学的に」解き明かすことを研究の主旨とし、目標とした。したがって、目標達成の可否はさておき、そうした原点を無視して、フロイトの方向性を「科学ではない」などと早計に断じることはできない。

1881年(25歳)ウィーン大学卒業。1882年(26歳)、後の妻マルタ・ベルナイスと出逢う。彼は知的好奇心が旺盛であり、古典やイギリス哲学を愛し、シェークスピアを愛読した。のちの彼の著作に多く引用されるシェークスピアに関する知識は、この時代に培われたといってよい。
難しいことを平易に書きこなす美文家であり、また非常に筆まめで、友人や婚約者、後には弟子たちとも、親しく手紙を交わした。

なかでも1887年(31歳)から1904年(48歳)の17年間の長きにわたって、親友である耳鼻科医ヴィルヘルム・フリース(Wilhelm Fliess)と交わされた文通は、そっくりそのままフロイトにとって自己の構造や精神分析学の基礎を見い出していったプロセスであり、ちょうど後世に精神分析を志す者たちが精神分析医になるために行う訓練分析にあたる自己省察を、フリースを相手に突き詰めていったものとしてたいへん価値がある。